艶やかな着物姿と、しっとりとした歌声で長く愛されている演歌歌手の伍代夏子さん。「戻り川」や「忍ぶ雨」などのヒット曲を持ち、NHK紅白歌合戦には通算22回出場しています。
華やかな演歌界で活躍してきた伍代夏子さんですが、実は東京都渋谷区の魚屋で育った、ちゃきちゃきの東京っ子です。実家がどこにあったのか、どのような家庭環境だったのか、気になるところですよね。
この記事では、伍代夏子さんの実家が営んでいた魚屋や生家の様子、父親・母親・姉との関係を詳しく紹介します。さらに、魚屋での暮らしが演歌歌手を目指すきっかけになった理由や、両親との別れ、現在の活動まで見ていきます。
伍代夏子の実家は代々木八幡の魚屋|場所や生家を解説
伍代夏子さんの実家について、特に気になるのは次のような部分です。
- 実家は東京都渋谷区のどこにあったのか
- 両親が営んでいた魚屋はどのような店だったのか
- 生まれ育った家はどのような建物だったのか
- なぜ実家の暮らしが歌手を目指す原動力になったのか
- 渋谷への思いが現在の活動にどうつながっているのか
まずは、伍代夏子さんの原点となった代々木八幡の実家から詳しく見ていきましょう。
伍代夏子の実家は東京都渋谷区代々木八幡の魚屋
結論からいうと、伍代夏子さんの実家は、東京都渋谷区の代々木八幡で営まれていた魚屋です。
伍代夏子さんの公式プロフィールには、出身地が東京都渋谷区と記載されています。本人もインタビューで、実家が東京・代々木八幡の魚屋だったことを明かしています。
代々木八幡は、渋谷区の中でも昔ながらの商店や住宅が残る地域です。現在の洗練された渋谷のイメージとは少し違い、伍代夏子さんが育った当時は、地域の人たちが顔を合わせる商店街の雰囲気が色濃く残っていました。
伍代夏子さんは、自身について「渋谷生まれ、渋谷育ち」と語っています。幼い頃に暮らしていた家の向かいには、後にBEGINのプロデューサーとして知られる松崎澄夫さんが住んでいたことも明かしました。
演歌歌手というと地方の風景を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、伍代夏子さんは生粋の渋谷育ちです。都会の商店街で育った魚屋の娘という経歴は、かなり印象的ですよね。
実家の魚屋の名前は「市六水産」?
伍代夏子さんの実家については、魚屋の名前が「市六水産」だったと紹介されることがあります。
一部の人物資料では、代々木八幡にあった魚屋「市六水産」の次女として育ったと記載されています。
ただし、伍代夏子さん本人のインタビューや公式プロフィールでは、「実家は代々木八幡の魚屋」「実家は鮮魚店」と語られているものの、店名までは明かされていないことが多いです。
そのため、魚屋だったことと代々木八幡にあったことは本人発言から確認できますが、「市六水産」という店名については、人物資料などで紹介されている情報として見ておくと分かりやすいでしょう。
魚屋と自宅は少し離れていた
魚屋と住居が完全に一体となった店舗兼住宅を想像する人もいるかもしれませんが、伍代夏子さんによると、家と店は少し離れていたそうです。
両親が店で働いていたため、子供の頃の伍代夏子さんは、学校から帰ると家で一人になることが多い「鍵っ子」でした。テレビ番組の放送時間をすべて覚えてしまうほどのテレビ好きだったとも振り返っています。
魚屋で忙しく働く両親を身近に感じながらも、自宅では一人で過ごす時間が多かったのでしょう。
にぎやかな商店と静かな自宅。その両方が伍代夏子さんの子供時代にあったことが分かります。
生家は2階建ての木造住宅だった
伍代夏子さんが生まれ育った家は、2階建ての木造住宅でした。
急な階段を上った先には踊り場のような場所と小さな窓があり、そこから夕日が沈む様子を見るのが好きだったそうです。本来は危ないため上がってはいけない階段でしたが、一人のときにこっそり上がり、アニメが始まるまで夕日を眺めていました。
華やかなステージに立つ現在の姿からは、少し意外な少女時代ですよね。
伍代夏子さんの芸能生活40周年記念曲「人生にありがとう」には、子供の頃に夕焼け空を見つめていた情景を思わせる歌詞があります。歌詞を受け取ったとき、誰にも話していなかった生家での記憶がよみがえり、驚いたと語っていました。
実家の小窓から見た夕日は、何十年たっても忘れられない原風景になっているようです。
実家は金持ちだった?
渋谷区の実家と聞くと、「裕福な家庭だったのでは?」と感じる人もいるかもしれません。
しかし、伍代夏子さんが語っているのは、両親が毎日忙しく魚屋で働き、自身は鍵っ子として過ごしていたという生活です。生家についても、昔ながらの2階建て木造住宅だったと明かしています。
実家の詳しい資産状況は公表されていませんが、いわゆる「渋谷の豪邸で育ったお嬢様」という生い立ちではありません。
むしろ、朝から晩まで働く両親の姿を見てきたからこそ、「いつか両親に家を買って、ゆっくりさせてあげたい」という思いが強くなったと語っています。
渋谷区という住所だけでは分からない、商売人一家らしい生活があったのでしょう。
魚料理が身近にある家庭だった
実家が魚屋だったため、伍代夏子さんの家庭では魚が身近な食材でした。
本人は、実家でマグロの刺身が頻繁に食卓へ並んでいたことを語っています。
一般家庭ではごちそうになるような新鮮な魚も、伍代家では日常の食事だったのでしょう。
一方で、子供の頃は魚料理が続くと洋食が食べたくなることもあったようです。大人になってから料理好きとして知られる伍代夏子さんですが、食への関心にも魚屋で育った経験が影響しているのかもしれません。
2025年のインタビューでは、自分のせっかちな性格について「実家は魚屋で私もせっかち」と話していました。忙しく商売をする両親を見て育ったことで、てきぱきと動く性格が身についたのでしょう。
魚屋の娘だったことが演歌歌手を目指すきっかけ
伍代夏子さんが演歌歌手を目指した背景には、実家の魚屋と家族の影響がありました。
父親と母親がともに演歌好きで、店や家庭では演歌が身近に流れていました。さらに祖母からは、同じく魚屋の家庭に生まれた美空ひばりさんを引き合いに出し、「魚屋の娘でも頑張れば演歌歌手になれる」という趣旨の言葉を繰り返し聞かされていたそうです。
幼い頃には、家族や店のお客さんの前で歌うと、10円玉や飴をもらっていたこともありました。しかし、4歳頃になると、恥ずかしさもあって人前では歌わなくなったといいます。
表では歌わなくなっても、演歌への憧れが消えたわけではありませんでした。
中学生になると歌手になりたい気持ちはさらに強くなりましたが、オーディションに落ちるのが恥ずかしく、応募はがきを書いても投函できなかったそうです。高校1年のとき、渋谷でモデル事務所のスカウト担当者を見つけ、自分から何度も前を通って名刺をもらったことが芸能界入りにつながりました。
おとなしい少女が、歌手になるため自らスカウトされにいったというのは、かなりドラマチックな話ですよね。
両親に家を買うことが歌手としての目標だった
伍代夏子さんが歌手を目指した大きな理由の一つが、忙しく働く両親を楽にしてあげることでした。
実家の鮮魚店では、父親と母親が毎日のように忙しく働いていました。その姿を見ながら育った伍代夏子さんは、「いつか家を買ってゆっくりしてほしい」と考えるようになったと明かしています。
単に有名になりたいのではなく、両親に新しい家を贈りたいという思いが、歌手を目指す原動力になっていたのです。
後に紅白歌合戦へ出場するほどの歌手になり、両親に引っ越しを勧めました。ただ、長く暮らした場所や近所とのつながりは、両親にとって簡単に手放せるものではなかったのでしょう。
伍代夏子さんは両親の晩年を通じて、住む場所を変えることだけが親孝行ではなく、本人たちが望む暮らしを支えることも大切だったと気づいたことを語っています。
両親に家を買いたいという夢には、魚屋で働く2人をずっと見てきた娘ならではの思いが込められていたのですね。
渋谷の実家は現在の音楽活動にもつながっている
伍代夏子さんにとって渋谷は、単なる出生地ではなく、歌手としての原点が詰まった場所です。
2024年には、BEGINが制作した「渋谷百年総踊り」をカバーしました。伍代夏子さんは「渋谷生まれ、渋谷育ち」の歌手として、地元への思いを込めて歌っています。
幼い頃に近所で聞いていた芸能関係者の話や、神社のお祭り、商店街のにぎわいといった記憶も、この曲につながりました。
魚屋の店先や木造住宅の小窓、近所の人々との交流。伍代夏子さんの演歌には、そんな昔ながらの渋谷で育った経験が息づいているのかもしれません。
伍代夏子の両親や姉との関係|家族構成と現在も解説
伍代夏子さんの実家を知るうえで、家族との関係も欠かせません。
- 父親はどのような人だったのか
- 母親も魚屋で働いていたのか
- 兄弟姉妹はいるのか
- 両親と夫・杉良太郎さんの関係
- 両親が亡くなった時期
- 伍代夏子さんのプロフィールと現在
魚屋を営んでいた父親と母親、姉との4人家族について一つずつ見ていきます。
実家の家族構成は父親・母親・姉の4人家族
伍代夏子さんは、父親、母親、姉、本人の4人家族で育ちました。
本人がインタビューで、実家について「父と母と姉の4人家族だった」と明かしています。
姉が1人いるため、伍代夏子さんは2人姉妹の妹です。
両親が魚屋で働いていたことから、家族全員で過ごせる時間は限られていたとみられます。それでも、父親が帰宅するまでは食事に手をつけず、一家の大黒柱を待つという家庭でした。
現在では少なくなった、昭和らしい家族の形があったことが分かります。
父親は魚屋を営んだ中川輝継さん
伍代夏子さんの父親は、中川輝継さんです。
父親は代々木八幡で魚屋を営み、2023年7月11日に89歳で亡くなりました。
伍代夏子さんによると、父親は威厳があり、いわゆる「昭和のお父さん」という雰囲気の人物でした。子供の頃には何度も叱られましたが、伍代夏子さんにとっては優しく、大好きな父親だったそうです。
家庭では父親が一家の中心にいて、家族は父親の帰宅を待ってから食事を始めていました。
厳しさがありながらも、娘から深く慕われていたことが伝わってきます。現在の伍代夏子さんが持つ、筋を通す性格や歯切れのよい話し方にも、父親の影響がありそうですね。
母親も魚屋を支えていた
伍代夏子さんの母親も、父親とともに魚屋を支えていました。
両親が店で忙しく働いていたため、伍代夏子さんは家で一人の時間を過ごすことが多かったと語っています。
母親の名前は広く公表されていません。家庭では料理を担い、魚を中心とした食事を用意していたとみられます。
母親は晩年、父親と姉の支えを受けながら生活していました。2022年に88歳で亡くなり、入院前日に伍代夏子さんと交わした言葉が、最後の会話になったそうです。
母親は何度も感謝の言葉を伝え、伍代夏子さんは「また帰ってきてね」と声をかけました。親子にとって、言葉にできない思いが詰まった別れだったのでしょう。
姉は父親と一緒に母親を支えた
伍代夏子さんには姉が1人います。
姉は芸能活動をしている人物ではなく、詳しい名前や職業は公表されていません。
母親の晩年には、父親と姉が中心となって介護していたことを伍代夏子さんが明かしています。
伍代夏子さんは歌手として仕事を続けていたため、実家の近くで生活を支えた姉の存在は大きかったはずです。
父親、母親、姉、伍代夏子さんの4人で築かれた家族関係は、両親が亡くなった後も、伍代夏子さんの中に強く残っているのでしょう。
母親を亡くした翌年に父親も他界
伍代夏子さんは、2022年に母親、2023年に父親を相次いで亡くしました。
母親が亡くなった後、父親は外へ出たがらなくなり、次第に寝たきりの状態になったそうです。父親は母親の介護を続けていたこともあり、妻を失った悲しみは大きかったのでしょう。
父親が亡くなった際、伍代夏子さんは、母親がいなくなってから元気を失った父の姿を見るのがつらかったと語りました。その一方で、両親が再び一緒になれたのではないかという思いも明かしています。
長年一緒に魚屋を切り盛りした夫婦だけに、2人の結びつきはとても強かったのでしょう。
両親は夫・杉良太郎とも仲がよかった
伍代夏子さんは1999年に、歌手で俳優の杉良太郎さんと結婚しました。
杉良太郎さんと伍代夏子さんの両親は非常に仲がよく、本人が「私よりも仲がよかった」と話すほどでした。
夫婦げんかになると、杉良太郎さんが伍代夏子さんの両親に「どちらが悪いと思う?」と話を持ち込むこともあったそうです。ところが両親は杉良太郎さんの味方をし、母親から伍代夏子さんへ「あなたが折れなさい」と言われていました。
娘の夫を実の息子のように受け入れていたことが伝わる、ほほ笑ましいエピソードですよね。
魚屋を営んだ両親が大切にしていた人情や家族観は、伍代夏子さんと杉良太郎さんの夫婦関係にも受け継がれているようです。
伍代夏子のプロフィール
伍代夏子さんの基本プロフィールは次のとおりです。
| 項目 | 内容 | 補足 |
|---|---|---|
| 芸名 | 伍代夏子 | 1987年から使用 |
| 本名 | 山田輝美 | 公式プロフィールに記載 |
| 旧姓 | 中川輝美 | 歌手活動初期に本名でも活動 |
| 生年月日 | 1961年12月18日 | 公式プロフィールに記載 |
| 年齢 | 64歳 | 2026年7月時点 |
| 出身地 | 東京都渋谷区 | 公式プロフィールに記載 |
| 血液型 | A型 | 公式プロフィールに記載 |
| 職業 | 演歌歌手 | 1982年に最初のデビュー |
| 伍代夏子名義のデビュー | 1987年 | 「戻り川」でデビュー |
| 代表曲 | 戻り川、忍ぶ雨など | 「忍ぶ雨」で紅白初出場 |
| 夫 | 杉良太郎 | 1999年に結婚 |
| 実家 | 代々木八幡の魚屋 | 本人がインタビューで公表 |
| 兄弟姉妹 | 姉1人 | 父母と姉の4人家族 |
伍代夏子さんは1982年に「星ひろみ」としてデビューした後、複数回の改名を経験しました。1987年に現在の芸名で「戻り川」を発売し、ようやく大きな注目を集めます。
成功までに時間がかかっても諦めなかった粘り強さには、魚屋を懸命に営む両親の姿が影響していたのかもしれません。
現在も歌手として精力的に活動
伍代夏子さんは現在も、演歌歌手として活動を続けています。
2026年には歌手活動45周年を迎え、7月22日にニューシングル「流転の花」を発売します。人生のわびさびを艶やかな演歌で表現した作品と紹介されています。
魚屋の娘として代々木八幡で育ち、両親に楽をさせたいという思いから目指した演歌歌手。その夢をかなえた後も、伍代夏子さんは長く歌い続けています。
実家の小窓から夕日を眺めていた少女が、歌手活動45周年を迎えるまでになったと考えると、胸に響くものがありますね。
伍代夏子の実家に関するまとめ
- 伍代夏子さんの実家は東京都渋谷区の代々木八幡にあった
- 実家の両親は魚屋を営んでいた
- 魚屋の名前は、一部の人物資料で「市六水産」と紹介されている
- 魚屋と自宅は少し離れており、伍代夏子さんは鍵っ子として育った
- 生家は2階建ての木造住宅で、小窓から夕日を見るのが好きだった
- 父親と母親は演歌好きで、祖母も歌手になる夢を後押しした
- 両親に家を買って楽をさせたいという思いが歌手を目指す原動力になった
- 家族構成は父親、母親、姉、伍代夏子さんの4人家族
- 父親は魚屋を営んだ中川輝継さんで、2023年に89歳で亡くなった
- 母親は2022年に88歳で亡くなり、その翌年に父親も他界した
- 両親は伍代夏子さんの夫・杉良太郎さんとも非常に仲がよかった
- 2026年に歌手活動45周年を迎え、現在も精力的に歌い続けている
伍代夏子さんの実家は、華やかな芸能一家や豪邸ではなく、両親が忙しく働く昔ながらの魚屋でした。
魚屋の店先で流れていた演歌、祖母から聞いた美空ひばりさんの話、木造住宅の小窓から見た夕日。実家で過ごした日々の一つひとつが、現在の伍代夏子さんの歌声につながっているのでしょう。